- 書誌情報
Kroes, Peter [2012] Technical Artefacts: Creations of Mind and Matter. Springer.(未邦訳:「技術的人工物―心と物が作り出すもの」(試訳)) - 本書の背景
技術哲学 (Philosophy of Technology) は、科学哲学などの他分野に比べると、まだまだマイナーな分野である。しかし、私たちの生活実践とは比較的離れたところで展開されがちな科学研究に比べて、技術は私たちの生活に密接に関わっている。くわえて言えば、科学が私たちの生活に関わるとすれば、それが私たちの知的好奇心を刺激するという役割を果たす以外では、やはり技術を通じてなのだ。いかに生きるべきかが哲学の大きな主題の一つであるとすれば、私たちがいかに生きるかに深く関わるという点で、技術の問題は、哲学が真剣に取り組むべき問題でありうる。
オランダやアメリカを中心に展開されている現代の技術哲学では、2000年頃から「技術哲学の経験的転回」が叫ばれるようになった。1980年代頃までの技術哲学では、現実社会における技術の展開に関するケーススタディや、工学設計などの技術に関わる実践的営為の分析といった「経験的研究」なしに、技術一般とはかくかくしかじかの性格ものであると独断的に定義されることが多かった。たとえば、ハイデガーは、技術の本質を「総駆り立て体制(Gestell)」に求めた。それによれば、技術は、それが技術である限りにおいて、あらゆるものを何かのための資源として用立てるように人間を駆り立てる。人間自身も例外ではない。「人材」という言葉が如実に示すように、技術が生み出す体制の中では、人間ですらある種の資材として用立てられる。こうしたハイデガーの技術論には、戦時総力戦体制と、その痕跡を強く残す戦後の巨大科学の体制という歴史的状況に対する批判的含意を見出すことができる。しかし、技術の本質を「総駆り立て体制」に求めるハイデガーの技術定義は、何に根拠をもっているのだろうか。私たちの日常生活の隅々にまで浸透するようになっているこの技術という存在について、可能な限り独断的に判断せず、より真摯に考えるためには、何らかの「経験的研究」を必要とするのではないか。「経験的転回」が主張したのは、これである。
「経験的転回」の名を冠する論文集が同時期に2つ出されたため (Achterhuis (ed) [2000] ; Kroes and Meijers (eds) [2001]) 、ひと口に「経験的転回」と言っても、互いに緊張関係にある二つの潮流が存在している。オランダの技術哲学者:Philip Brey [2010] は、その二つの潮流にそれぞれ、「社会志向的技術哲学」と「工学志向的技術哲学」という名前を与えている。前者は、社会における具体的な技術使用に着目して技術の社会性の観点を強く押し出す一方で、後者は、設計における工学的実践に着目し、技術における設計者の役割を強く押し出す傾向にある。また、前者には、現象学の伝統を独自の仕方で引き受ける「ポスト現象学」や、フランクフルト学派の批判理論の流れを引き継ぐ「技術の批判理論」などが含まれる。後者には、英米における分析哲学・科学哲学をバックボーンとする「分析的技術哲学」が属する。「社会志向的技術哲学」と「工学志向的技術哲学」は、大陸哲学と分析哲学がかつて対立していたほどに相容れないわけではないものの、やはり微妙な理論的緊張関係にはある。
本書の著者であるPeter Kroes は、「経験的転回」を主張した張本人の一人であると同時に、「分析的技術哲学」における代表的論者のひとりである。 - 解説
本書は、彼が長年提唱してきた「技術的人工物の二重本性」(dual nature of technical artefacts) に関する理論が結実したものである。Kroesの基本的な立場は、サブタイトルにもあるように、技術的人工物を「心と物が作り出すもの」とみなすものである。人工物は、文字通り、人が作り出すものであるが、人はある意図 (intention) の実現のために人工物を生み出す。他方で、人工物は、そうした意図を実現に導くのに十分な物的構造 (physical structure)をもって作られなければならない。こうして、人工物は「二重本性」をもつ。すなわち、それは、人間の意図に関わる意図的特性を有すると同時に、それにふさわしい物的構造に関わる物的特性を有する。
Kroesによれば、自然の事物 (natural objects) と社会的事物 (social objects) と対比してみることは―これらの事物をどこまで截然と区別できるかという問題は当然提起されるにしても―人工物の特徴づけには有用である。自然の事物ないし物的事物は、それそのものとしては、目的をもたない。例えば、路傍の石は、それ自体としては、何のために存在しているわけでもない。もちろん、それを石斧として使うとか、ハンマーの代用として釘を打つことはできる。しかし、このことは、その石に対して目的を割り当てるのは、木を切ろうとか、釘を打とうとかいう人間の意図であることを示している。そのような人間の意図と関係することなしに、その石は目的をもつことはない。その意味で、単なる石は、意図的特性を欠いた物的事物である。他方で、制度や契約などの社会的事物には、物的特性が欠けているか、きわめて希薄である。社会的事物に効力を与えているのは、もっぱら人間の意図であり、集団的志向性である。そのため、それが意図される効果をもつためには、物的構造を必ずしも必要としない。たとえば、物的な事物の媒介がなくても、口約束だけでも、人の行動を制約する効果は多かれ少なかれ発揮される。これら物的事物・社会的事物と比べて、人工物を生み出すには、意図だけでも物的構造だけでも不十分である。木を切りたい・釘を打ちたいと意図しても、その意図だけでは人工物は実現しない。その意図を実現するに足る物的構造を与える必要があるからである。
人工物が意図的特性と物的特性という二重本性をもつとすれば、人工物の定義的要素であるとされる「機能」の概念は、この二つの特性に関わる「架橋概念」として理解される必要がある。しかし、機能とは何であるかという問題は、それほど簡単な問題ではない。たとえば、機能はもっぱら人間の意図との関係で規定されるという見方をとる場合、ネジを回すという意図を実現できるのであれば、十円玉もドライバーであるということになる。しかし、そうではないだろう。ネジを回せるとしても、十円玉はあくまで十円玉であって、ドライバーではないからである。さらに、ネジを回すという意図を達せられるのであれば、十円玉でも木でも石でも何であれドライバーであることになる。何よりも不都合なことに、この見方では、人工物の定義にもっぱら関わるのは人間の意図だけであって、物的構造はそれには関わらないことになる。
Kroesは、人工物の機能をめぐる諸問題を解決するために、技術的人工物種 (technical artefact kind) の概念に訴える。Kroesによれば、ある物的対象に何らかの機能を帰属させることによって人工物を規定するという方策はあまりうまくいかない。というのも、「xはφするためのものである」(x is forφ-ing) という言明と、「xはφするものである」(x is a φ-er) という言明には差があるからである。十円玉は、ネジを回すためのものでありうるが、だからといって、ドライバー (screwdriver) ではない。このことから見て取られるように、「xはφするためのものである」とは、ある対象xに機能を帰属させる言明である。しかし、この言明は、それが属する「技術的人工物種」を必ずしも規定しない。そして、「xはφするものである」という言明は、「技術的人工物種」を規定する言明である。そうすると、技術的機能 (technical function) に関する理論だけではなく、技術的人工物種に関する理論が私たちには必要なのである。なぜなら、ある対象xがドライバーであるのは、「ドライバー」という技術的人工物種の例 (instance) としてだからである。
ところで、代用の問題を解決する方策として、人工物の固有機能 (proper function) と偶然機能 (accidental function) を区別するという方策がとられることがある。固有機能とは、ある人工物に固有の機能のことである。たとえば、十円玉の固有機能は、通貨として使用できることであって、ネジを回すことができるというのは、その偶然機能に過ぎない。それゆえ、ネジを回せたとしても、それが十円玉の固有機能ではない以上、十円玉はドライバーではないと言える。しかし、この方策は、代用の問題に対処できたとしても、そのままでは故障の問題に対処できない。たとえば、テレビの固有機能は、遠隔地からの電波を受信して、それを映像や音声として出力することであると考えられる。だとすれば、故障して映像も音声も出力しないテレビは、もはやテレビではないことになる。これは奇妙なことではないだろうか。「故障したテレビ」という言い方がすでに示唆しているように、私たちは、跡形もなく粉砕でもされない限り、故障した後でもそれを「テレビ」と呼び続けるように思われるからだ。実際、故障した後になって、それまで「テレビ」だったものが、突然何か正体不明の「X」になるわけではない。
もちろんKroesは、この固有機能という概念は依然として有用なものであると考える。ただし、Kroesによれば、それは、使用の文脈から切り離されなければならない。というのも、使用者にとってある人工物がどのような機能をもつかに依存して人工物が規定されるかぎり、固有機能の概念を導入しても、問題が生じてしまうからである。実際、故障の問題とは、実際の使用の場面において使用者がテレビとしての固有機能をある個別対象(壊れたテレビ)に帰属できないかぎり、故障したテレビは、テレビではないことになってしまうという問題なのである。したがって、この問題を回避するためには、固有機能の概念を使用の文脈から切り離すことが必要である。技術的人工物種の概念はこれに貢献する。なぜなら、ある使用の場面において使用者が個別の対象にどのような機能を帰属できるかではなく、ある種にどのような機能が割り当てられるのかが問題になるからである。
したがって、人工物の定義にとって決定的なのは、「種-固有機能」(Kind-proper function) である。実際の使用実践においてある人工物がどのような機能をもつかは、人工物を規定するうえで必ずしも重要ではない。Kroesによれば、種-固有機能は、その人工物を作り出したものが、それがどのような意図で作られてきたか、またその意図を実現するためにどのような物的構造が与えられてきたか、その来歴によって定まる。
一つの例として、Kroesは、試作機の例を挙げている。たとえば、通信衛星をつくる際、それが実際に作動するかを地上でテストするために、試作機が作られる。通信衛星の固有機能は、電波による無線通信であるが、試作機は、無線通信のために使われるわけではない。あくまでテストに供されるものである。しかも、誰かがたまたまテストに使うというのではなく、研究開発者のコミュニティの中で広く公的に認められる固有の機能ですらある。そうすると、固有機能が異なる以上、試作機の方は通信衛星ではないということになるだろうか。そうではないだろう。試作機は、打ち上げ予定の人工衛星とまったく同じ構造のものである以上、「通信衛星」であると言うべきだろう。もちろん、同じ構造といっても、「同じ」ということをどこまで厳密に受け取るべきなのかという問題は生じる。原子・分子レベルまで同一のコピーは望むべくもない。ただ、コピーの忠実さがどの程度であれば十分なのかは、宇宙空間での電波による無線通信をどのレベル・どの様態で可能にするかという機能との関連でこそ定まる。他方で、宇宙空間での電波による無線通信をなにがしかの仕方で可能にするという機能は、当該の通信衛星とは別の構造をもつ装置によっても可能かもしれない以上、この機能だけで「通信衛星」が定まるわけでもない。したがって、それがとるべき物的構造もまた、通信衛星の規定に関わっていると見るべきだろう。こうして、テストに用いられる試作機がなおも通信衛星であるのは、技術的人工物種が制作者の意図と、それに与えられる物的構造の双方に制約されているからなのである。
このようにして、Kroesは、人工物の意図的特性と物的特性という二重本性を架橋する機能概念として、「種-固有機能」(Kind-proper function)を見出す。それは、人工物を作り出す設計者側がそれをどのような意図のもとで作り出し、その意図を実現するための物的構造を与えたかによって定まる。このことは、人工物の行為者性の問題にも関連する。Kroesによれば、人工物が設計者側の意図と関わらざるをえない以上、人間の意図から独立した意味での行為者性を人工物に帰属させることは誤りである。しかし、このことは、人工物がなんら道徳的意義をもたないということを意味しない。人工物の行為者性の問題、なかんずく道徳的行為者性の問題が提起されてきたのは、人工物が人間の道徳的行為に―予期しない仕方で―介入するがゆえに、それ自身の行為者性を備えているように見えるからである (cf. Verbeek [2011])。つまり、人工物の道徳的意義に関して提起されてきた問題である。Kroesによれば、人工物には、それがどのような意図のもとで作られ、どのような物的構造をとってきたか、その来歴と結び付いて生じる道徳的意義が確かに内在している。しかし、人間の行為者性と目的にまったく依存しないような意味での行為者性は、人工物には備わっていないのである。 - 意義と批判
Kroes は、「経験的転回」を主張した『技術哲学における経験的転回』(The Empirical Turn in the Philosophy of Technology) [2001] の中で、 従来の技術哲学を評して「誤称」(misnomer) とまで言い切っている。ここでいう従来の技術哲学とは、ハイデガーにさかのぼるような「古典的技術哲学」のことではない。むしろ、1980年代以降のSTS(科学技術社会論)における社会構築主義の隆盛に刺激されてきた、ポスト現象学や技術の批判理論のような、比較的新興の技術哲学のことである。これらは、1.において「社会志向的技術哲学」と呼ばれていたものであり、社会における使用の文脈に応じて技術的人工物がそのアイデンティティをいかに変化させていくかに強く着目する傾向がある。しかし、Kroesにとって、この戦略は、設計者側の役割を軽視するものに映る。というのも、Kroesにしてみれば、技術は、何よりも「作る」ことに関わるはずであって、作る側の事情に入り込まない技術哲学は、技術哲学としてどうにも的を外していることになるからである。多少誇張して言えば、「技術」哲学という看板を掲げていても、それが「作る」ことに着目した分析を含まないのであれば、看板に偽りありということになる。
こうして、Kroesの理論は、使用者側よりも、設計者側に強く着目するものである。Kroesの理論が成功しているかどうかは措くとして、それが私たちに示唆するように思われるのは、技術的人工物のアイデンティティは私たちが思うよりもずっと強固なのではないかという観点である。確かに技術的人工物のアイデンティティは変化しうる。しかし、そう易々と変化もしない。たとえば、材質の違いや洗練具合の違いはあれど、斧の形状と機能は、原始時代からそれほど変わっていない。ハンマーもそうである。一方で、コンピュータは、その創成期のものと比べると、形も構造も、何となれば機能すらも変化しているように見えるが、それにもかかわらずコンピュータである。電話についても、そうであろう。今や前世紀の遺物となりつつある黒電話とスマートフォンは似ても似つかない。スマートフォンは、電話というよりも、もはや手のひらサイズのPCであると言った方が実情に近い。にもかかわらず、スマートフォンはそれでも電話であり続けている。こうしたアイデンティティの強固さをどのように説明できるのだろうか。人工物のアイデンティティの変わりやすさがもっぱら注目されることが多いなかで、むしろその変わりにくさをいかに説明できるのかという視点を、Kroesの理論は与えてくれる。この点にKroesの理論の意義があるように思われる。
他方で、Kroesの理論に対しては批判もありうる。たとえば、Vaccari [2013] は、技術的人工物の二重本性プログラム(Dual Nature of Artifacts Program)が結局は機能に関する意図説 (intentionalism) の一派生形態でしかないことに不満を表明している。もちろん、二重本性説は、人工物のあり方が人間の意図だけによって定まるのではなく、その物的構造にも密接に関わることを強調する。しかし、それは、人工物のあり方をあくまで意図という観点の側から探究するために、その物質性 (materiality) がせいぜい制約条件 (constraints) としてしか語られず、物質性に関する実質的な議論が展開されていない。Vaccari によれば、これは二重本性説が前提としている物心二元論的枠組によるものであり、この枠組そのものを反省することでより幅広い理論的展開を導く可能性がある。その場合、一元論的な展開や多元論的な展開も考えられるであろうが、いずれにしても、意図の側からだけではなく、物質性の側からの議論も必要である。たとえば、陶器づくりのように、物の側の何らかの実質的特性が、身体との相互作用をつうじて、その生産プロセスを方向付けることもある。つまり、物の特性が生産プロセスを共同決定 (co-determine) しているという側面が存在する。Vaccariが示唆するように、こうした側面をも考慮に入れることで、より豊かな理論展開が期待できるかもしれない。 - 著者紹介
オランダ・デルフト工科大学教授 - 参照文献・読書案内
参照文献
Achterhuis, Hans (ed) [2001]. American Philosophy of Technology: the Empirical Turn. Trans. R.P. Crease. Indiana University Press. (Originally published in Dutch as Van stoommachine tot cyborg; Denken over Techniek in de nieuwe wereld [1997]).
Brey, Philip [2010]. “Philosophy of Technology after the Empirical Turn.” Techné: Research in Philosophy and Technology 14:1.
Kroes, Peter and Anthony Mijers (eds). [2000]. The Empirical Turn in the Philosophy of Technology. Emerald Publishing Limited.
Vaccari, Andrés [2013]. “Artifact Dualism, Materiality, and the Hard Problem of Ontology: Some Critical Remarks on the Dual Nature of Technical Artifacts Program.” Philosophy & Technology 16: 7-29.
Verbeek, Peter-Paul [2011]. Moralizing Technology: Understanding and Designing the Morality of Things. The University of Chicago Press.
読書案内
(1) 「技術哲学の経験的転回」に関するもの
Kroes, Peter and Anthony Mijers (eds). [2000]. The Empirical Turn in the Philosophy of Technology. Emerald Publishing Limited.
Achterhuis, Hans (ed) [2001]. American Philosophy of Technology: the Empirical Turn. Trans. R.P. Crease. Indiana University Press. (Originally published in Dutch as Van stoommachine tot cyborg; Denken over Techniek in de nieuwe wereld [1997]).
Franssen, Maarten, Pieter E. Vermaas, Peter Kroes, and Anthonie W.M. Meijers [2016]. Philosophy of Technology after the Empirical Turn. Springer.
(2) 人工物の機能に関するもの
Houkes, Wybo and Pieter E. Vermaas [2010]. Technical Functions: On the Use and Design of Artifacts. Springer.
(3) 人工物の行為者性に関するもの
Kroes, Peter and Peter-Paul Verbeek (eds) [2014]. The Moral Status of Technical Artefacts. Springer.
Verbeek, Peter-Paul [2011]. Moralizing Technology: Understanding and Designing the Morality of Things. The University of Chicago Press. - 執筆者
古賀高雄(2022/06)
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